自然の渦に教えてもらった
素の自分の戻り方
一日の終わりに、お風呂の中で
誰とも会わず、誰とも喋らず、外にも出なかった一日の終わり。
家の中にいて、たしかにいろんなことが満たされているはずなのに、夜になって、なんだか言葉にならない複雑な気持ちがふわっと押し寄せてきた。
そんな夜、お風呂に入って、いつものように湯船から出る。
ぷしゅ、と栓を抜く。
ぼうっと、流れていく水を眺めていた。
排水溝に吸い込まれていく水は、ゆるやかに渦を巻いている。
何度か、手でかき消してみる。
ぐるん、と一瞬流れが乱れる。
——でも、また、すぐに同じ方向に戻ってしまう。
何度かき消しても、何度かき消しても、また、ぐるぐると、同じ方向に渦を巻きはじめる。
なんでだろう、と思った。
竜巻も、渦巻きも、ぜんぶ時計回り。
そう、ずっとそう思って生きてきた。
そして、ふと自分に問いかける。
——本当に、そうなんだっけ?
実は、逆だった
調べてみて、びっくりした。
**北半球の台風も、竜巻も、お風呂の渦も、基本は”反時計回り”**なんだそうだ。
地球の自転が生む、「コリオリの力」というしくみのせい。
南半球に行くと、これが逆になる。
つまり、「全部時計回り」だと思い込んでいた私の世界観は、実は半分しか合っていなかった、ということ。
人間って、自分が見ている景色を「これが当たり前」だと思いがちだ。
でも地球の反対側では、渦は逆向きに回っている。
たったそれだけの事実なのに、足元がふわっと軽くなる気がした。
自分の「当たり前」って、案外、世界の半分しか映していないのかもしれない。
でも、スピリチュアルでは”右回り”
面白いのは、ここから。
科学では「反時計回り」が、北半球の自然の渦の正解。
でも昔から、スピリチュアルの世界ではこう言われてきた。
「右回りは、整える方向」
神社の参拝の作法も、エネルギーワークの基本も、右回り。
——どっちが正しいの?
そう問いかけたくなるけれど、たぶん、そうじゃないのだ。
科学は「自然がどう動いているか」を教えてくれる。
スピリチュアルは「人がそこに何を感じてきたか」を教えてくれる。
どちらも、人間が自然と向き合ってきた長い歴史の中で生まれた、本当のこと。
正反対に見える二つの答えが、どちらも嘘じゃないって、なんだか優しい話だなと思った。
私たちはずっと、渦に意味を見出してきた
そう考えると、不思議な気持ちになる。
人類は、何千年も昔から、自然の渦をじっと見つめてきた。
水が流れていく様子。台風が運ぶ嵐。夜空に浮かぶ銀河。
そこに法則を見つけた人もいれば、神聖さを見出した人もいた。
どちらも、「自然に寄り添いたい」という願いから生まれた営み。
そう思ったとき、ふと、自分のことを考えた。
私もいま、いくつもの渦の真ん中にいる。
主催者という役割の渦。
営業という役割の渦。
PRや、発信や、誰かを応援する役割の渦。
そのどれもが大切で、誰かのために回している渦のはずなのに——気づくと、自分自身の真ん中が、すこし空っぽになっている気がする。
「みんなが自分らしく勝てる場所をつくる」と言いながら、その私自身は、自分らしくいられているんだろうか。
満たされているはずなのに、夜になると複雑な気持ちが押し寄せてくるのは、たぶん、そういうことだ。
役割を言う名の鎧を脱いで、素の自分に戻る
たぶん、私たちが本当に必要としているのは。
科学的に正しい渦の方向を知ることでも、スピリチュアル的に整った渦を回すことでもなくて。
ただ、自然のそばに身を置いて、自分が回している渦を、いったん止めることなんじゃないかと思う。
風が頬を撫でる音を聞く。
水が流れる音を聞く。
紫陽花の香りが、風に混じって運ばれてくるのを、ただ感じる。
役割を全部脱いで、自然と一体になったとき。
人はやっと、「素の自分」を取り戻せる。
肩書きでも、立場でも、誰かの期待でもない、ただの自分に。
それは、何かを得ることじゃなくて、ずっと自分の中にあった芯に、ようやく帰ってくることなのかもしれない。
さいごに
箱根は、その渦のエネルギーが、今も静かに流れている場所だと、私は思っている。
芦ノ湖の対流、温泉の湧き出し、風が運ぶ紫陽花の香り。
人が役割を脱いで、自然と一体になれる場所が、たしかにある。
もし、いまあなたの中の渦が、少しだけ重く感じるなら。
蔵樹で、その渦をそっとほどく時間を、過ごしてみてほしい。
きっと、素の自分が、ちゃんと迎えに来てくれるから。
みぽりん🐘








